創世記と黙示録(5) 王の王。主の主。

『神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』 創世記1:28

『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。』 詩篇8:5〜9

『また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。」』 黙示録19:6

 支配する事は、どちらかと言いますと王の職務です。
神はこの地球上に生存するすべての生物を支配する権威を、最初の人間であり、また、別の意味では人類の代表者であるアダムに委ねられました。その事は、神ご自身がいかに人間を重んじられているかを第一に示しています。
 また第二に、それは神の人間に対する信頼を現わしていると思います。
 そして第三に、その事は神が人間に恵みによる特権をお与えになられた事を、合わせて教えています。ですからその神を、与えられた自由意志をもって裏切り反逆するという事が、神に対してどれ程大きな罪であるかが分かります。
しかし、愚かにも人間は、悪魔の誘惑に屈服してその大きな、しかも取り返しのつかない罪を犯してしまったのです。

 ある時私は考えさせられました。「どうしてその時、神は人間を滅ぼして、新しい人類を創造されなかったのだろうか。」と。その答えは勿論聖書の中には直接示されていませんので、知ることは不可能です。神にとって新しい人類を創造することは難しい事であったでしょうか。いとも簡単な事であった筈です。けれども、神は、その様にはなさいませんでした。ここに、最初の人類、アダムにこだわられる神のお姿を見ることが出来ます。
その理由は分かりませんが、何故か神は、アダムにこだわられて、彼とその妻を滅ぼす事はされず、かえって彼らの救いのために、御ひとり子イェスによる赦しと永遠の救いを用意されていたのです。しかもそれは、彼らが創造される以前から立てられていたご計画でありました。神ご自身によって計画され、なされる事は、実に人知を遥かに越えています。

『私たちの主イェス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』 エペソ1:3〜4

『地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者ははみな、彼を拝むようになる。』 黙示録13:8

 永遠の神のご計画と人の思いは明らかに異なります。人間は何を考えても結局は有限の存在に過ぎず、神ご自身は無限かつ永遠の存在者であられますから、人は神のなさる事のすべてどころか、そのほんの一部しか知っていませんし、また、知ることが許されていません。
ですから、その知らされている事で満足し、神をほめ賛えることこそ人に許されている特権であり恵みです。それを越えて何かを知ろうとする事は決して許され無いことであり、越権行為という大きな罪を犯すことです。

 しかし、悪魔はそれを知っていて人を誘惑し、罪の深みへと人を導きいれるものなのです。私たちはそれを、創世記3章1節のエバに対する彼の最初の問いかけを通して見ることが出来ます。

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」』 創世記3:1

この言い方は、あたかも神が意地悪い方で、人間に何かを隠しているかのように考えさせ、神を疑わせようとする目的が隠されているようです。しかし、愚かにも女は、神が言われた通りのことを悪魔に言わず、自分の考えで余計な事をつけ加えた答えをしました。

『女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。…(それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』と仰せになりました。……… とは言わず、…『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』)…と答えたのです。 創世記3:2〜3

(『………』)の部分が、エバが勝手につけ加えて言った部分です。仮に、もし神が何かを隠して知らせようとなさらないなら、それは人間が知る必要の無い事であり、知らないほうがかえって人にとって、最善であるという神ご自身の愛のご配慮です。ですから、それを越えようとしたり越えることは、神の主権を侵害することであり大きな罪です。
こうして人間は、神から与えられた支配権…王権を悲しくも喪失してしまいました。しかし神 はこれをそのままには放置されず、御子によってそのすべてを回復されたのです。

『「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイェスのことは見ています。イェスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」』 ヘブル2:6〜12


 人間が失った支配権…王権の完全な回復のためには、神の御ひとり子が人となられ、十字架の恥とのろいを受けて死なれなければなりませんでした。そして、御子はそれを完全に成し遂げて下さったのです。何と言う素晴らしい事ではありませんか。主イェスは、聖書に示されているように、確かにユダヤ人の王であられます。

『イェスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました。』 マタイ2:1〜2

確かに主イェスが、ユダヤ人の王であられることは、旧約聖書にも数多く預言として示されています。この方は後に必ずダビデの王座に座して、ご自身の王国をお立てになられます。
その預言はまだ実現していませんが、それは神のご計画の時がまだ来ていないからです。まず人類を罪と滅びから救われるために、御子は苦難のしもべとして来られ、そのみわざを成し遂げられて、天に帰られました。今は、父の御座の右にあって大祭司としての働きを続けておられますが、やがて御座から立たれて王としてこの地上に来られます。
イエスは、天にお帰りになられる前に一度だけ、やがて来られる王であられる事を、ロバの子に乗ってエルサレムへ入場することを通して示されました。

『「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも荷物を運ぶろばの子に乗って。』 マタイ21:5

またイェスは、ユダヤの指導者たちにも次のように宣告されました。

『イェスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」』 マタイ21:64

さらにイェスは、ピラトの問いに対しても、王であられる事を否定されませんでした。

『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。』 ヨハネ18:37

イェスは確かに王であられますが単なる王ではなく、王の王、主の主なのです。

『「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。」…その着物 にも、ももにも「王の王、主の主。」という名が書かれていた。』 黙示録19:6,16

人が罪によって喪失した支配権と王権を、回復されたイェスに栄光がありますように。