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| そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。 第六日。こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。 創世記 1:31,2:1 神は全能者であられますが故に、万物を一瞬にお造りになる事はいとも簡単なことです。しかし、創世記1章を見ますと、万物の創造に当たって神はそのようにはなさらず、六日間に分けてそれぞれのものを造られました。 何故そのようにされたのでしょうか。それはおそらく被造物である私たち人間には知ることが出来ないと思います。しかし、そうなさった事には理由と意味がある筈です。 ですから、たとえその全てが解らなくても、その事から何か信仰的に霊的な事を学ぶ事は出来ると信じます。そこで今回は、神の創造の順序から霊的な教訓、または、深みを少しでも教えられたいと思います。 初めに、神が天と地を創造した。 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 創世記1:1 この初めは、神の創造の初めであり、天地が存在するようになった時間の初めです。 ですから、私たちが時間と呼べば呼べるところの永遠の時の流れはあったでしょう。しかし、ここから新しい時間の流れが、神と被造物の関係の中に始まったのです。 それがどれほど劇的なものであったかは想像も出来ません。 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。 創世記1:3〜4 光は万物の存在のための第一の必要なものです。特に命を持つもののためには、欠くことの出来ないものですが、おそらくそれ以外のものにも必要でしょう。これが創造の第一日目の神のみわざでした。 ではまずここまでの事から霊的な事を考えてみましょう。 この時点ではまだ人間は創造されていませんが、それは抜きにして人間の霊的な事に関する事を考えたいのです。 人間は神によって、神のかたちに創造されたものです。しかし、神に反逆した罪人である人間の状態は、混沌としたやみの中にあるものと同じです。 そして人が、その事を示されて認め受け入れたとき、その魂に光が差し込みます。 その事は、使徒パウロが書いた第二コリントの中に出て来ます。 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 コリントU4:6〜7 神と人間の関係の中には、善悪二種類の分離があります。 まず悪い方から考えますと、罪とは神と分離して生きる事であり、そのことを聖書は霊的な死とも呼んでいます。 では、もう一つの良い方の分離は何かと言いますと、それは罪を悔い改めて神に帰るときに起こる、罪またはこの世との分離です。 その分離を決断し、キリストを通して神に帰るとき人は救われるのです。 ついで神は、「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。 こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。 神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。 創世記1:6〜8 大空の上と下の水の分離により、人の罪に対する裁きの準備が出来ました。 このさばきの準備をとおして、神は、ご自身の義なるご性質を明らかにされています。 そして義なる神は、大空のはるか彼方の天に住まわれるお方であられますがその天の住まいを、御子の十字架の贖いを通して救われる者のための、永遠の住まいとして定めて下さったのです。 聖書では、水はみことばと御聖霊の象徴ですから、みことばと御聖霊の働きを通してのみ、人は天の住まいに心を向けることが出来、それを見る事が出来ることを教えられます。 しかし人は、この天の住まいに入るためには、地に住み、そこで天の住まいに移されるための準備をしなければなりません。天に住む道はそれ以外にありません。 ですから、この地に人として生まれて来た事には、素晴らしい意味と目的があるのですが、人は聖書、またはキリストに来るまではそれを知る事が出来ません。 だから人は、苛酷な人生に直面すると、その人生を恨んだり、そこからの逃避としての死を考えます。 私もかつてはそうでしたが、救われた後で初めて、人として生まれた事の素晴らしさを教えられ、死を考えた罪の大きさを悔い改め、人として生まれさせて下さった神と両親に感謝をささげました。 神は、「天の下の水は、一所に集まれ、かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、よしとされた。 創世記1:9〜10 水と水の分離に続くのは、地と海との分離です。これでその後に続いて創造される全ての生命体の住む所が備えられたわけです。 神は実に、愛と恵みの神であられますが故に、愛するもののために全ての必要を知り、かつ、備えて下さるお方であられます。 もし人間が、未知の世界に生まれて来る自分の子供のために、心を尽くしてその必要を備えるとしたら、それは神のかたちに造られている事を示すものです。けれども、今日では、生まれる前に自分の子供を闇から闇に葬ってしまう親が増えています。 悲しい事ですが、それ程神から遠く離れた人間の罪が増し加わり、深くなっている事を示しています。 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。 それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中にある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。 こうして、夕があり、朝があった。第三日。 創世記 1:11〜13 全ての生物は食物の摂取によってその生命を維持し、かつ、生長と活動をするように造られています。 この事は取りも直さず、全ての生物は創造主がその主権をもって定められた法則に従って存在し、また生きるものである事を示すとともに、創造主に依存する存在である事を明確にしています。 その意味において、人間をも含めた全ての生物は、神に対する受け身の存在に過ぎない事を明らかにしています。 そして神は、その全ての必要を満たして下さるお方であられます。 ここで私たちは、主イェスの語られたお言葉を思い出す事が出来るのではないでしょうか。 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 …なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 マタイ 6:26,28〜31 この様に自然界においても、全ての必要を満たして下さるお方はまた、人がキリストを信じた信仰者として生きる時にも、霊と肉の必要の全てを備え満たして下さるお方であられます。 ですから、その祝福の豊かさにあずかる秘訣は唯一つ、次の聖句をそのまま受入れることです。 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 マタイ 6:33 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。 天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。 それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。 神は見て、それをよしとされた。こうして夕があり、朝があった。第四日。 創世記1:14〜19 この所は少し理解するのに難しい所と思います。 なぜなら、1章5節に既に昼と夜とが造られているのに、どうしてまたここでそれが繰り返されているのだろうか、という思いが入って来るからです。 かつて、大阪で宣教師として活動された兄弟が、この事について私に言われた事があります。 「私はこの箇所を次のように受け止めています。すなわち、神は既に造られていた太陽と月を、地球との関係の一番良い位置に置かれたのでは無いかと言う事です。なぜなら、太陽の位置がもし地球からもっと遠ければ、生物は凍結してしまうであろうし、またもし、もっと近ければ、全ての物が焼き尽くされてしまう可能性があります。だから神は、太陽と月を地球との関係で最適の位置、また、距離の所に置かれたのではないでしょうか。」 私は、それを教えられて、なるほどと感心させられました。そして、その事は今も忘れません。 私は今その事から、光が象徴する神のことば、特に、私たちの救いのために必要なことばが、ちょうど良い所に置かれている事を覚えて感謝します。 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。 なぜなら、もしあなたの口でイェスを主と告白し、あなたの心で神はイェスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。 ロ−マ 10:6〜10. 私たち救われた者は、神がちょうど良い時に、ちょうど良い光を心に照らして下さった事を知っていると思います。 神は、最善をなさるお方です。また神は、信仰生活の歩みにおいても、最も適切なみことばの光、摂理の光、助言の光、勧告と警告の光をもって導き育てて下さるお方です。 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」 こうして、夕があり、朝があった。第五日。 創世記1:20〜23 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。 伝道者の書 3:11 まさにこの言葉の通りです。 全ての生物が必要とする食物を備えてから、神は動物を造られました。ここにも神の、愛と恵みの配慮のあることを私たちは見ます。 もし自然界がそうであるなら、なおさら神は、霊の世界においても、もっと素晴らしい事をして下さる事を、期待すべきでは無いでしょうか。 事実、その通りです。 神は私たちを日々、みことばの糧をもって養って下さいます。 ただ、私たちに必要な事は、日々みことばを求めることです。私たちが信仰生活において迷うことを主は決して望まれません。 そのために、みことばをただ読むたけでは無く、主に祈り求めるとともに、主のみ声を聞くことが大切です。 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。 詩篇119:105 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。 エレミヤ15:16 主イェスもまたご自身の事を食物とパンに例えて言われました。 「なくなる食物ためでなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」 すると彼らはイェスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」 イェスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」 ヨハネ6:27〜29 イェスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、渇くことがありません。」 …まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。 わたしはいのちのパンです。 …わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。 …イェスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまります。 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 これは、天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」 …いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。 ヨハネ6:35,47〜48,51,53〜59,63 今日、救われていてもなかなか確信と喜びを持って主に仕えている信者は少ないように思います。 そして、その一つの原因は、いのちのパンである主イェスを、いのちのパンとして、日々味わい尽くさない所にあるのでは無いかと思います。 知的にイェスを知ることと、日々イェスを味わう事とは違います。 その違いが解らないために、喜びを持って主に仕え、主に取り扱われて自分自身が消え去って行くことを喜べないのです。 私の自我、私自身が消え去ることこそ、信者の真の喜びの源泉であり、命の満ち溢れている姿です。 「ついで神は、地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。 そして神は、われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 創世記1:24〜28 神の創造のみわざの締めくくりのように、最後に造られたのが神のかたちを持つ人間です。 その意味に置いて、最高の被造物として造られた人間こそ、神の創造の栄光の冠と言っても良いと思います。 そして、詩篇の作者は確かにそのように言っています。 あなたの指のわざである天を見、 あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 (あるいは,御使いよりいくらか劣るものとし) これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 私たちの主、主よ。 あなたの御名は全地にわたり、 なんと力強いことでしょう。 詩篇 8:3〜9 このように、神は人間を最高の被造物として、扱っておられるのです。 だからこそ、神はまた、言われます。 わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。 だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。 イザヤ 43:4 主は遠くから、私に現われた。 永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。 それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。 エレミヤ書31:3 この神の永遠の愛に基づき、ひとり子なる神ご自身が、十字架の死にまでも父なる神のみこころに従って、贖いのみわざを成就して下さったのです。 それゆえ、ヘブル人への手紙の記者は、この詩篇第八篇の作者ダビデ王の言葉を引用して次のように書いているのです。 むしろ、ある箇所で、ある人がこうあかししています。 「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。 人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低い者とし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」 万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイェスのことは見ています。イェスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。 教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」 またさらに、 「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」 と言われます。 ヘブル 2:6〜13 何故ここまで神は、人間に対して愛とあわれみを注がれるのでしょうか。 何故その御一人子イェスのいのちの代価を払ってまで、罪と滅びからお救いになる事にこだわられるのでしょうか。 真実不変のご自身のご性質とご計画、そして、それを約束されたご自身のみことばの権威に基づくと、私は考えます。 神は、私たちが考える以上に、ご自身のかたちに創造された人間を大切にして下さり、「お前たちが存在しなくては、わたしは満足しない。」とまで言っておられるかのように、私には聞こえてきます。 何と言う恵み、何と言う特権、何と言う大きな愛、それを考えるだけで私の心には、ただ感謝と賛美が溢れます。 神ご自身が何故そこまで、愛と恵みの極限まで、人を高価なもの、大切な者として扱って下さるのか、今そのことのすべては解りませんが、天に入れば解るかも知れません。 しかし、たとえ解らなくても神のなさる事は、すべて完全、すべて神の栄光と誉れ、神ご自身の満足に違いありません。 この神によって高められた神の子、神の祭司としての最高の特権を知って謙虚にされるとき、私たちは初めて神が喜び、満足して下さる礼拝者となれるのでは無いかと思います。 そして、そのすべてが、神の絶対的な主権と権威あるみことばにかかっていると言う事を覚えて、もう一度神ご自身の御前にひれ伏します。 一瞬にしてすべてのものをお造りになる事の出来るお方が、時間をかけて一つづつ造って下さった被造物、そしてその最後に造られた人間に特別の思いをかけて下さった神ご自身の深いご配慮、そこに私は人間に対する神の価値評価を見ます。 そしてそれはまた、失われた人間の贖いのために、実に長い時間を惜しげもなくかけて下さった神の愛と忍耐の尊さを悟らせて下さいます。 創世記の第一章は、「初めに、神が天と地を創造した。」という1章1節で始まり、「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。」という31節のことばで終わっています。 そこには、人間の反逆の罪、堕落と神への反抗を見据えながら、その未来にある御子イェスによる十字架の贖いの太陽が、永遠の栄光の大きな光がかすかに見える感じがします。 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 創世記 1:3 栄光と誉れのすべてを御子イェスと父なる神ご自身におささげ致します。 |