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| 初めに、神が天と地を創造した。 創世記1:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 創世記2:1〜2 聖書に出て来る数字には、そのすべてとは言えませんが確かに意味があるようです。 すなわち、1はものの始まりを示し、2は1の次で、さらにまさるものを示し、3は神の数字と言われます。それは、神ご自身が三位一体の神であられるからでしょう。 4は四方または地の四方、すなわち全地を現わすようです。 5は、十戒が示しているように、人間の神と人に対する責任を現わす数である10の半分で、恵みを示しているようです。 また6は、完全数が7であるところから、それに一つ足りない不完全数を示すとともに、不完全な人間を現わす数のようです。 七は完全数で神の数字とも言われ、8は、神が天地創造の時に七日目に休まれた所から、新しい出発を意味していると言われます。 では9は何を現わすのでしょうか。苦難や苦しみを示すと聞いた事があります。 10は先にも言いましたように、人間の責任を示す数であり、12は、3×4ですから、神の選びと証し人という関係があると思います。イスラエルの十二部族、主イェスが選ばれ十二弟子たちの事が思い浮かびます。また十二は黙示録に十二門や十二の土台石などから考えますと、四方に対する主の栄光の証しとも関係があるかも知れません。 その次に聖書に良くて出て来る数字は四十ですが、この数字は待つ事や、神の裁きと関係があるように思えます。 しかし、これらはあくまでも私の考えさせられている事であって、断言出来るものでは決してありません。ただ、こうした事からも霊的な教訓を自分なりに得たいと思うだけです。 ですから、もちろんこれは聖書の解釈ではありません。 さてそこで、もう一度1と言う数から考えてみたいと思います。 1は始めの数字ですが、それとともに“有る”と言う事の表現でもあります。 時々、主イェスの復活と主を信じる者たちの復活について話しますと、「そんな事は信じられない。」と言う人に出会います。ある人は私に言いました。 「あなた方は、二口めにはイェスが復活したとか、信じる者も必ず復活するのだと言うが、私にはとても信じられない。何故なら、あそこでも、ここでも死んだ人がいつも復活していると言うのなら信じられるが、そんな事は無いではないか。だから絶対信じられない。第一、譲歩して考えても、証拠となるのはイェスと言う人の復活の一例だけで、他に無いではないか。もっと多くの復活したと言う人が全世界にいるなら私も考えて見るがね。」と。 これに対して私は何と答えたでしょうか。数字を012345と言う風にならべて書いた上で相手に見せ、そして言いました。 「見て下さい。数学の世界では0と1は隣り合わせですね。それは、ある意味では最も近い関係と言えますが、よく考えて見ますと実は、最も近くて、しかも、最も遠い関係ではありませんか。例えば。0は百万足しても0です。しかし、1は百万足すと百万になります。 言い換えれば、0は無いと言う事の表現であり、1は有ると言う事の表現です。ですから、証拠と言うものは一つあれば十分です。 唯一の救い主イェスは、全人類の罪を背負って身代わりに十字架上で死なれましたが、三日目に、確かに復活されました。それには多くの目撃者と証人がいます。その上に、新約聖書は主イェスの死と復活から数えてわずか三十数年後にはもうその一部が書かれています。ですから、もしそこに書かれている事が事実で無いなら、とっくの昔にそれは葬り去られていた筈です。 けれどもそうはならず、かえって今に至るまで全世界に伝えられ、多くの人に信じられているという事実は、それが虚偽の書ではない事を明確に示しています。しかも、聖書は今も毎年の世界のベストセラーであり、二千近い言葉に訳されていると言う事は、そこに何回も書かれている事の確かさと事実の歴史である事を証明しています。 ですから、私は聖書を信じ、また主イェスによる永遠の救いと、未来の復活を信じているのです。」と。 この様に、聖書について、また主イェスの十字架の死と復活による確かな救いを確信出来る事の素晴らしさを、私は日々感謝しつつ、復活の日を待ち望んでいます。 ここで、主イェスの復活にとその証人についての聖書の記事を引用します。 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。 コリント T 15:3〜9 復活の証人たちは一人や二人でなく数多くいたこと、しかもその中の大多数はまだ生きていること、同時に五百人以上の人たちに現われたこと、そして、パウロ自身もその証人の一人であること、それらの事をよく考えてみましても、キリストの復活は十分に信頼できる歴史的事実です。 ですから私もそれを信じているばかりでなく、それを宣べ伝えているのです。 さて、1と言う数字が初めを示すように、創世記は文字通り始めの書であり、そこには多くのものの始まりが書かれています。 1.天地創造、すなわち、宇宙の始まり。 2.人間の知っている時間の始まり。 3.生物(植物、動物、人類)の始まり。 4.昼と夜の始まり。 5.日と週と安息日の始まり。 6.人類の結婚及び出産の始まり。 7.罪、すなわち、神への反逆の始まり。 8.殺人及び死の始まり。 9.信仰による神礼拝の始まり。 10.贖い主の告知の始まり。 11.住まいとしての町の建設の始まり。 12.農業、牧畜と他の産業の始まり。 13.神の約束のしるしとしての虹の始まり。 14.降雨と洪水の始まり。 15.複数の妻を持つ事の始まり。 16.不道徳、不品行、同性愛、売春の始まり。その他、数多くのものが始まっています。 そしてそこには、祝福された幸いなものの始まりと、悪しきものの始まりがあります。 では次に2という数の事を考えて見ましょう。2という数字には、1にまさる、より優れたものという意味があるようです。この事に関しても聖書にはいろいろな事が出て来ます。 まず第一に、アダムとイェス様の事を考えましょう。 アダムは第一の人です。 聖書に、「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。 コリント T 15:45〜49 第一の人アダム、土からの人よりも、第二の人イェス、すなわち、天からの人の方が遥かに優れており、その方に属するクリスチャンたちもまた、天に属するいのちを持つ優れた者として、恵みを受けているのです。 次に、アダムの二人の子ども、カインとアベルの事を見てみましょう。 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟(アベル)を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。 ヨハネT 3:12 この二人の事は、創世記4章とヘブル人への手紙11章に出て来ますが、カインは神を恐れない不信仰、不従順の人であり、アベルは神を恐れる信仰と従順の人でした。 すなわち、第一の人より第二の人の方が優れていました。 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。 ヘブル11:4 次に見るのはイシュマエルとイサクの事です。二人とも信仰の父と呼ばれている人、アブラハムの子どもです。 神はアブラハムに、世継ぎとなる子どもが与えられる事を約束されましたが、それはアブラハムが75歳で、また妻のサラが65歳の時でした。二人は年を取っていましたしサラは不妊の女でした。 しかし、神にとって不可能はありません。 けれどもそれを信じ切れず、待ち切れなかったサラの提案にアブラハムも妥協し、その結果サラの女奴隷ハガルから生まれたのが、肉の子であるイシュマエルであり、後に神の時が来てアブラハムの正妻サラによって生まれたのが約束の子イサクでした。 そのどちらが優るかは、比喩によって次のように、ガラテヤ人への手紙の中に使徒パウロが書いています。 そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。 このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。 しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。 ガラテヤ 4:22〜25 このように、第二の人の方が優れている実例は、エサウとヤコブの二人にも見る事ができます。この二人は双子で二人ともイサクの子どもたちです。 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」 このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。 ロ−マ9:8〜13 一見不合理に見えるこのことの背後に隠されている神の永遠のご計画を教えられる時、私たちはそこに神ご自身の深い知恵と恵みを見せられます。 そして、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言う、あの伝道者の書3:11のみことばをもう一度味わう事を許されるのです。 神ご自身のなさる事は、多くの場合人には理解出来ませんが、すべてにおいて完全であり、かつ、非の打ち所のない素晴らしいものです。 そしてそれは、全能者であられる神の栄光の現われでもあります。神こそ、ほむべきお方です。 しかし、このエサウとヤコブのことは、単なる二人の個人的な事だけではなく、神によって選ばれた選民イスラエルと、その他の国、または民族の事が関わっている事を、聖書は明らかにしています。 イスラエルは確かに神によって選ばれた神の器であり、神の証人でありますが、失敗して神の御名を汚した証人です。 それゆえに神は、この時代の神の証人として、どちらかと言うと異邦人が中心となっている神の教会を、キリストの証人として用い、栄光を現わされるのです。 恐れるな。虫けらのヤコブ、 イスラエルの人々。 わたしはあなたを助ける。 −主の御告げ。− あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。 ……あなたがたはわたしの証人、 −主の御告げ。− わたしが選んだわたしのしもべである。 これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、 わたしがその者であることを悟るためだ。 わたしより先に造られた神はなく、 わたしより後にもない。 わたし、このわたしが、主であって、 わたしのほかに救い主はいない。 このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。 あなたがたのうちに、異なる神はなかった。 だから、あなたがたはわたしの証人。 −主の御告げ。−わたしは神だ。 イザヤ41:14,43:10〜12 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 使徒1:8 イスラエルは、神によって選ばれ、全人類のために神を証しする証人として立てられた神の器であり、教会もまた、神によって選ばれ、全人類のために神を証しする証人として立てられた神の器であります。 勿論そこに私たちは、旧約時代の証人“イスラエル”と、新約時代の証人“教会”について、幾つかの共通点と相違点を見る事が出来ます。それをこれから比べてみましょう。 共通点 順序は不同です。 1.どちらも神によって選ばれた神の民である。 2.どちらも神に愛された神の民である。 3.どちらも神によって贖われた神の民である。 4.どちらも神によって聖とされた神の民である。 5.どちらも神の恵みを受けた神の民である。 6.どちらも神がその民の中にともに住まわれる神の民である。 7.どちらも神の証人としての使命を与えられた神の民である。 8.どちらも神がその主権を持って取り扱われる神の民である。 9.どちらも悪魔の支配する世から解放された神の民である。 10.どちらも祭司制度を持つ神の民である。 12.どちらも神の祝福を受けた神の民である。 13.どちらも神によって導かれる神の民である。 14.どちらも神の嗣業を受け継ぐ神の民である。 15.どちらも神の子としての立場を与えられた神の民である。 16.どちらも神の栄光のために立てられた神の器なる神の民である。 この事に関して聖書の幾つかの箇所から引用してみましょう。 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。 申命記 7:6〜8 これは旧約の民と言われるイスラエルに関する記事ですが、先に上げた七つの共通点の大部分を含んでいると思います。以下は新約の神の民と言われる教会に関するものです。 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。 ペテロ T 1:18〜19 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。 ペテロ T 2:9〜10 キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。 エペソ 5:2 なお共通点である神の証人としての使命については、すでに引用していますので、ここでは省略します。 |