創世記ノ−ト(60)聖書の数字9

神はこの光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。
こうして夕があり朝があった。第一日。 創世記1:5
騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。 黙示録9:16

 この第一日から地球の歴史が始まりました。
しかし、そこにはまだ、人間の存在はありませんでした。けれども神は、この地球上にご自身のかたちをもつ人類を創造され、住まわせられたのです。そして今に至るまで、地球と人類の歴史は、多くのドラマを生み出しながら続いて来ております。
その中のあるものを記しているのが聖書であり、今日に至るもなお毎年の世界のベストセラーでありますが、その聖書の中には多くの数字と、数字に関係のある教え、事件や物事が出て来ます。それらをたどりながら考えていく事にはそれなりの意味があり、また、いろいろな事を教えられます。
特に霊的な事を考えて行く事には、興味とそれなりの価値があると言う事が出来ると思います。
そこでもう暫く、聖書の数字から考えて見ることに致します。

 まず創世記1:5の第一日の1は、整数の一番小さい数です。そこに私たちは一人の人に対する神の大きな愛、そして一人の人をどこまでも大切にして下さる神の深い恵みを見ます。

 主は、ある人たちがおそいと思っているようにその約束の事を遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐ぶかくあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 ペテロU 3:9

 私が初めて聖書に触れたのは、今から50年前の1949年です。その当時冒頭の黙示録9:16の聖句に出て来る騎兵の数は二億などと言いますと、笑って信じない人の方が圧倒的に多かったのを覚えています。
しかし、今はどうでしょうか。誰も笑いません。
何故なら、中国の人口は約十二億、インドの人口が約八億と言われる時代では、それは有り得ないことでは無くなったからです。今から約二千年も前に書かれた聖書は、そうした事の一つをとってみても、確かに、永遠の神のお言葉であると言えるのではないでしょうか。小さな数と大きな数、人には不思議と思える事であっても、神には当然のことです。
 1は小さな数で、2億は遥かに大きな数ですが、その中間には様々の数があります。私たちにとっては千年は長い時間ですが、神にとっては一瞬です。

 あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」
まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。
あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。
朝、彼らは移ろう草のようです。
朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。 詩篇90:3〜6

 ここには、神の時間と人の時間は異なる事と、人のいのちとそのはかなさは、創造者であられ、かつ、主権者であられる神の支配下にある事を教えています。
しかし、そうでありながら、神ははかない存在の人間を愛し、その永遠の救いのために、ひとり子さえも惜しみ無く与えて下さるお方です。それゆえに神は、一人の人間のいのちの価値は、どれ程尊いかを実際的に示されます。その事は、ゲラサ人の地で起こった汚れた霊につかれた人の解放を見れば分かります。

 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
イェスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イェスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。
それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。彼はイェスを遠くから見つけ、駆け寄ってきてイェスを拝し、大声で叫んで言った。
 「いと高き神の子、イェスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イェスが、「汚れた霊よ。この人から出ていけ。」と言われたからである。
それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイェスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イェスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って豚に乗り移った。
すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを懸け降り湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。 マルコ4:1〜13

 この事件から私はいつも教えられます。一人の人の魂の価値は、神の目には二千匹の豚よりも尊いと言う事を。そして、時々考えます。一匹の豚を買う人はいても、私を買ってくれる人はいないだろうなと。
神の評価と人の評価の価値観の相違は、その人が救われないとなかなか理解出来ません。クリスチャンたちが、いろいろなものを犠牲にしてでも一人の魂の救いのために、時間や費用、労力を注ぎ込む事の熱心さは、救われていない人には分からないでしょう。
 イェスの神であられる事と、このお方の全能の力を示す出来事は、主イェスの地上のご生涯の中では繰り返し行われましたが、それはパンの奇跡に見られます。

 すると、イェスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてからこれも配るように言われた。人々は食べて満腹した。
そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。人々はおよそ四千人であった。それからイェスは、彼らを解散させられた。そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタの地方へ行かれた。 マルコ6:6〜10

 そしてイェスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。
そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女とこどもを除いて、男五千人ほどであった。 マタイ14:19〜21

 すると、イェスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」すると、イェスは群衆に、地面にすわるように命じられた。それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。
そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。それから、イェスは群衆を解散させて舟に乗り、マガタン地方に行かれた。 マタイ15:34〜39

 主イェスにとって、多くの飢えた人たちを僅かなパンで養い、満腹させることは易しい事でした。しかし、イェスにとって大切な事は、群衆の数の大小ではなく、一人の人であっても飢えているならば、その人を決して見過ごしにはされないと言う事です。
何千人かの飢えを満たすことの出来るお方は、しかし、ご自身が荒野で悪魔の試みを受けられた時には、四十日四十夜の断食の後の空腹の時であられたにもかかわらず、ご自身の飢えを満たすために神の力を用いる事は、一切なさいきせんでした。
普通、人はまず自分の事を第一にするものですが、主イェスは、ご自身の事は捨て置いて人のために仕えられた方です。
 さて七千人には、もう一つの事があります。それは、今は不信仰の故に一時的に神に捨てられているイスラエルに関する事ですが、神は決してイスラエル民族を捨ててしまわれたのではないと言う事を、神は次のようにエリヤに言われたのです。それは神の恵みの真実を示すものです。

 それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する箇所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが彼に対して何とお答えになりましたか。バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。 ロ−マ11:2〜6

 これは、新約聖書に使徒パウロが書いている事です。しかし、旧約聖書を開いて見ますと、少しニュ−アンスが違います。そこでは、エリヤの(私だけが)と言う神への訴えに対する彼の幾分高ぶりとも言える言葉への、たしなめの神ののことばであるという事が、考えられます。
敢えてこの事を取り上げましたのは、七千人と言う数と関係があるからです。

 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフ−に油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。
ハザエルの剣をのがれる者をエフ−が殺し、エフ−の剣をのがれる者をエリシャが殺す。しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」 列王記T 19:13〜18

 エリヤはいのちをかけて神に仕え、不信仰な王と残忍な王妃イゼベルをも恐れず、大胆にバアルの預言者、アシェラの預言者たちとカルメル山上で対決した信仰の勇者でしたが、エリヤもやはり弱さを持つ一人の人でした。
ですから、イゼベルのエリヤ殺害の使者の言葉を聞いた時、恐れてユダのベエル・シェバに逃げましたが、そこで神に力づけられたのです。
しかし、神に対して、「私一人だけが。」と言ったとき、神はエリヤに「バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者七千人ををわたしはイスラエルの中に残している。」と言われたのです。
すなわち、この、「私ひとりが…。」と言うことばは、神に対するエリヤの高ぶりをあらわす言葉であり、神はこれを受け入れられませんでした。

 私たちの心の中にも何かをした時、この、「私ひとり、私だけが。」という思いが起こって来やすいことを教えられます。自負心、自画自賛などという罪は人の心の中に住んでいて、油断すると飛び出して来ます。
私たちにとって最も危険な時は、何かに失敗した時ではなく、むしろ成功した時である事を強く教えられます。
あの使徒パウロですら、神から受けた啓示の素晴らしさの故に高ぶる可能性があったようで、神はパウロの肉体に一つのとげを与えられたことがパウロの言葉で記されています。

 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 コリントU 12:7

 全知全能の神にとっては、ご自身のための器となる者を、幾千、幾万人でも選び、備え、守って用いる事はいとも簡単な事です。
それを考えますと、人間に何が出来ても、どんなに用いられても誇るところは何もありません。真の栄光をお受けになられるお方は、キリストと父なる神ご自身のみです。

 次に神は危険の中にあっても、ご自身に身を寄せて頼る者、主を自分の避け所とする者を守られる事が詩篇に書かれています。

 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。 詩篇91:7〜9

 また神は、滅び行く者たちであっても、ご自身の創造された人類の滅びる事を喜ばれず、悲しまれるお方であられる事は、次の聖句を見ると明らかです。

 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」 ヨナ4:10〜11

 今は不信仰で一時的に捨てられている選民イスラエルは、やがて神のあわれみによって、艱難時代に回復されますが、その時に用いられる人たちがいます。

 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルのあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。 黙示録7:4

 また天には、万の幾万倍、千の幾千倍もの天使たちが神に仕えています。そして私たちもまた、この時代のキリストの証人として召されています。その特権の素晴らしさを覚えて感謝し、真心から主に仕えさせて頂きましょう。

 今回をもって一応聖書の数字からの教えと、創世記ノ−トの学びを終わることに致します。お読み下さった方々に感謝し、栄光のすべてを主に帰します。