「主よ、あなたはどなたですか」 
村田知恵 no.1

  
 思い返せば、わたしがクリスチャンになる上で一番の鍵となったのは、‘いつもわたしの上におられる方(主)がどなたであるか’が明確に示されたというところでした。

我ながら熱心に集会に通って聖書の話を喜んで聞いていたようには思いますが、聖書の記事を幾つも知ってはいても、聖書全体の根幹部分である福音について何ひとつ理解しておらず、自分が求道しているという自覚も久しく持ち合わせていなかったのです。
しかし主なる神様は、わたしの人生に、幾重にも伏線を張り、時がきてわたしが福音を理解できるように備え、導いてくださいました。
そういうわけで、わたしは自分がクリスチャンになった経緯をすべて覚えているわけではありません。
救われた今、振り返ってみて印象に残っているところを挙げていこうと思います。



  神の存在について

生まれたときから両親がクリスチャンでしたから(こういう家庭を‘クリスチャンホーム’と呼ぶと知ったのはここ3〜4年のことです。)、わたしは小さい頃から聖書の話をよく聞いていました。
日曜学校にも、小さいときから入れてもらって、喜んで聖書の話を聞いていたように思います。
けれども、クリスチャンとは何を信じている人のことなのか、聖書の主人公は誰で、テーマは何なのか、が理解できていませんでした。
聖書の話にいつも登場する神様のことはよく覚えていて、この方が聖書の中心で、クリスチャンはこの神を信じている人のことだと思っていました。
聖書の冒頭に「初めに、神が、天と地を創造された」とあるこの創造主なる神の存在を認め、この神をいつも覚えて生きていく人がクリスチャンなのだと思っていました。
(この考えは、あながちでたらめとも言い切れません。)
両親は、この神の外に崇めるべき方はいないと言い、それ以外に拝まれている物はみな偶像だと教えてくれました。
確かに、偶像といわれる物は、木や石や紙で人間が作ったものにすぎず、自ら動くこともできない、何の力もない物だったので、その話は抵抗なく受け入れることができました。
そういうわけで、わたしは創造主なる神の存在を信じていました。
この方を恐れていました。
ただ、この方を本当に崇めていたかは疑問ですが。



  生ける神について

また、わたしは神様に向かって祈ることを教えられました。
わたしが祈るときは、三度の食事の前の感謝と、困ったときに願いを言い表して「尊き主イエス様の御名によって祈ります」と言うだけでした。
が、わたしの場合、人との衝突が多く、この世で生きていくにはあまりにも要領が悪かったので、困った事態に陥ることが多々あり、しょっちゅう「かみさまーーー!」と叫んでいました。

あるとき(確か、高校生になっていたと思います)、テスト期間中の朝、家を出る時間ぎりぎりになって腕時計が見つからず、困って、祈って探すことを思いつきました。
ほかに方法がなかったのです。
「神様、わたしがキチンと直しておかなかったので、時計がどこかにいってしまいました。
テスト中だから絶対に必要です。時計の在り処を教えてください。尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
こう祈ってクローゼットを探すと、すぐにズボンの裾の折り返し部分からポロッと時計がポロッと転がり出てきました。
神様が祈りに応えてくださったことが、あまりに嬉しくて、母に報告したことを覚えています。
母は、「よかったな。でもお母さんは、あんたと神様の関係ががそれ以上のものになることを祈ってるで。」といいました。
後になって知ったことですが、母は、わたしが個人的に神様との繋がりを持つことを祈ってくれていたようです。

それから何日も経たないうちに、わたしはまた同じ時計をなくしました。
そしてまた祈りました。「神様、いいかげんにしろとおっしゃるかもしれませんが、また時計をなくしてしまいました。いつも、苦しいときの神頼みでごめんなさい。でも、時計はどこにあるのでしょうか。」というような内容だったと思います。
時計は、またもやすぐに見つかりました。(どこから出てきたかは覚えていません。)
このようなことが何度かあって、わたしは神様が生きておられることを確信させられました。