キリストの受難

 最近、今話題の映画「パッション」を観賞しました。

 イエス・キリスト最後の12時間と復活!という話題作で、アメリカでは観賞中の女性があまりにも残酷な場面に失神したとか。たしかに衝撃的なシーンの連続でした。メル・ギブソン監督はどん底の状態から開放された自らの体験を通して、真の救い主、イエス・キリストに出会うことができるようにとの願いを込めてこの映画を製作したとか!残酷なシーン、恐い映画というイメージがあり、それなりの心の準備をしたつもりでした。

 主演のジム・カヴィ-ゼルは語りました。「多くの観客が最後の復活を見る前に、その耐えがたい暴力から席を立ってしまうかもしれない。しかし、同時にたくさんの人たちが最後の最後まで席に留まり、復活の神々しさ、そこから始まる何かを感じとってくれる事も信じている。」と。(パンフレットより)


映画画面より

 キリストには罪はないと宣言したピラト、なおも十字架につけろ,十字架につけろと叫ぶ民衆の声。その激しい民衆の声に、暴動が起こることを恐れたピラトは、祭りには望みの一人の囚人を釈放するならわしになっていたことを知り、バラバという名の知れた囚人を連れ出し、「誰を釈放してほしいのか。バラバか、キリストと呼ばれているイエスか」と迫りました。ピラトは彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたので、よもや極悪非道のバラバを赦しイエスを十字架につるとは考えませんでした。しかし祭司長、長老達に扇動された民衆は「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫び続けたので、保身上やむなくバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから十字架につけるために引渡しました。ここに権力者の弱み、苦悩、人間の罪深さを垣間見る事が出来ました 。

 
 彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ53:5-7)

 侮られ、さげすまされ、鞭打たれ、肉体的に、ずたずたになりながらご自分の架かるべき十字架の横木を担いで進まれるイエス様の姿、血が流れ滴る凄惨な場面でも目をそむけることなく、聖書の箇所(十字架の場面)をリアルに思い起こさせて貰い、感動いたしました。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。(㈵ペテロ2:22-24)

「父よ。彼らを赦してやって下さい。彼らは、何をしているか自分でわからないのです。」と、イエスはご自分を十字架につけようとする者に対して、神様にとりなしの祈りをささげられました。

また罪を認めて悔い改めた強盗の一人に対して、「今日、あなたは私とともにパラダイスにいます」と語られました。復活の主、勝利の主(イエス)は神の御座の右に着座されています。

どうか、目を背けないでほしい。 すべては、その受難の後に始まるもの—とパンフレットに記載 されています。 

 映画を見て、願わくばキリストの復活の場面がもう少し詳細に画面に映し出されたならば十字架の意味がより良く理解することができるのでは、と思いました。

私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(ローマ4:24-25)

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(Tコリント15:19)


 希望は失望に終わることはないと聖書にありますが、この世にある限り悩み、苦しみ,悲しみ、に遭遇します、或いは絶望の淵に立たされることがあるかもしれません。しかし失望あれど絶望なし、神様は絶えることのない希望をあなたに与えようとなさっておられます。どうかこの希望を自分のものとしてください。