・・・らしさ 

 今回は、人間の美しさについて考えてみました。
 聖書によると、神様は人間を創造されたとき、男と女に創造されたとあります。神様によって創られた人間は男と女でした。それは男は男らしく、女は女らしく創られたということではないでしょうか。「・・・らしい」という言葉は「・・・にふさわしい」という意味です。筋骨隆々とした人を男らしいと考える人もいるでしょうし、男は不言実行、黙っていてもやるときにはやるのが男だと考える人もいるでしょう。
 かつて女性とストッキングが強くなったと言われ、また女性の男性化、男性の女性化が社会現象とまで言われました。今や女性の地位は向上しました。かつて女性差別というか蔑視の時代がありましたが、男女雇用機会均等法などによって現在では社会的進出は目覚しいものがあります。それは時代の流れでしょうか。
 私は現役をリタイヤした年寄りですが、若い人たちの服装について苦言をひとつ。
 一時、女子高生の間に流行ったルーズソックス、だぶだぶズボンの若い男性たち、へそ丸出しのスカートをはいた女性たち、眉をひそめるのは年寄りのひがみ根性でしょうか。

「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(Tペテロの手紙3:3-4)

 内面的にはもちろんのこと、見た目にも男は男らしく、女は女らしくということです。神の創造の秩序に従って生活することが、人間としてふさわしいことであり、自然であり、美しいことなのです。

「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、今日は野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。」(ルカの福音書12:27-28)

 私は毎朝、緑地公園へ行って妻と一緒にウォーキングをします。公園の中に大きな池があって、蓮の花が咲き誇っています。涼風を肌に感じて、蓮の花を目にしながら歩くのは爽快です。蓮の花は仏様というイメージがありますが、その大きなつぼみ、その大きな花、ほかの花も美しいのですが、蓮の花は蓮の花の美しさを見せてくれています。
 創造の神様jは、季節の節目ごとに自然界を通してご自身を示しておられます。


「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人(つみびと)の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える。」(詩篇1:1-3)


1節:「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人(つみびと)の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」
 この1節に、「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった人は幸いである」とうたわれています。
「悪しき者」「罪びと」「あざける者」。人は神に対して正しく生きていくべき存在であるのに、この三者は神を無視するものです。ヘブライ語の罪という言葉には「的をはずす」という意味がありますが、本来の的である神以外のものに向かって生きるところに不幸があるというのが聖書のメッセージなのです。

2節:「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」
 1節が、神の前の正しい生き方に対して消極的な者についてうたっているとすれば、2節はその積極的な姿勢をうたっています。おしえ(神のことば)を喜ぶ、尊ぶ、とは一日中神の言葉に信頼して生きるという意味です。しかしここの「昼も夜も」を「一日中」と読み取ると同時に、「明るいときも、暗いときも」あるいは「幸いなときも、不幸なときも」と受け取ることもできます。私たちは、現実が意のままにならぬようなとき、しばしば焦ります。焦りは神を待つことができないときに生じるものです。なぜ神の約束を待つことができないのでしょうか。神のことばがあまりにも私たちの思いとかけ離れているように思えるからではないでしょうか。すべてのわざには時があるように、神のわざを見るには忍耐が必要です。

3節:その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える。」
 神は創造の神。すなわち無から有を生ぜしめる方です。現実はどのようであろうと、神はご自身の力をもって事を成されるのです。そのことをどこまでも信じて生きるところに、私たち信仰者の生き方があります。そのように生きる者は、流れのほとりにある木のごとく栄え、実を結ぶことができるのです。


 私たちの住まいである地上の幕屋(肉体)がこわれても、神の下さる建物があることを私たちは知っています、と聖書にあります。七十年、八十年、年齢とともに衰えを感じます。しかし神の下さる建物(永遠の神の都)が用意されているのです。

「私たちの齢(よわい)は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。」(詩篇90:10)

季節の節目ごとに美しい花を咲かせる植物のように、流れのほとりに実を結ぶ木のように、神様の栄光を表す人生でありたい。愚かな私でさえ、全能の神様はそれを信仰によって可能にしてくださいます。